「高齢者」と言われる年齢になって、過去を振り返ってみると、「この時が人生の分岐点」或いは「運命の分かれ道」と思える場面がいくつかあったことがわかる。今回はそのうちの一つを紹介したい。
小中の義務教育時代の私の成績は、体育や音楽、技術家庭を含めて落ちこぼれ寸前の状態だった。始まりは、小学5年生に入ってすぐに、東京から千葉の学校へ転校したことにある。これまでの教科書がほぼ全て使えなくなり、新しい教科書がすぐに届かず、授業中はしばらく隣の席の児童に見せてもらっていたが、授業は上の空で前の学校のことばかり考えていた。1年を通せば同じことを学習するのだろうが、教科書が違うので習う順番が異なり、算数などはチンプンカンプンだった。もともと理解力や集中力が弱いところに持ってきて、大変な環境の変化が加わり、私は精神的に参ってしまった。給食室からの調理の匂い、下駄箱の靴の匂い、廊下や階段のかび臭い匂いなど、吐き気を催す要因は枚挙に暇がない。土の校庭にも違和感を覚えたし、校歌が歌えず口をパクパクしているのもイヤだった。今から思うと土の校庭のどこが悪かったのかわからないが、前の小学校と違うもの全てが気に入らなかったのである。
このため私は学校に行けなくなった。水戸の祖母が泊まりに来た時も登校できず家にいた。祖母はとても心配して母親にいろいろと聞いていたし、私にも体の具合が悪いのかと聞いてきた。私は祖母に心配をかけて申し訳なく思ったが、それでも学校には行けなかった。不登校が長引くと、担任のS先生がクラスの児童を数名連れて我が家にやってきた。心身ともに健康そうなクラスメートと自分を比べ、私はこのまま奈落の底へ落ちて行き、この人たちの世界に戻ることはないのではないかと思った。
先生たちが我が家に来たせいなのか、その後に私は登校するようになった。学校が楽しいとは思わなかったが、苦痛ではなくなった。担任のS先生の授業は、教師が教えるのではなく、生徒たちに考えさせ、互いに教え合うという、「グループディスカッション」を中心に行われた。このため最初は黒板を向いて並んでいた机は、班ごとに移動され、各班6人ずつで7つの島ができた。先生は最初に課題を提示するだけで、あとはゆっくりと教室中をまんべんなく周り、児童の質問に答えたり、進行の遅い班にアドバイスしたりしていた。
S先生は当時40代半ばくらいだったろうか。卒業アルバムには、他の男性教師全員がネクタイをしているのに、紺のポロシャツにブレザーというラフな姿で映っていた。先生は児童に何かを指示したり、叱ったり、説教したりすることは全くなかった。私に対しても、なぜ学校に来ないのかと聞くことも、登校するように言うこともなかった。このためクラス児童は伸び伸びしていて、いつもガヤガヤと私語が飛び交い、隣のクラスから苦情が来るほどだった。私は、S先生が他の先生から「変わり者」と見られ、孤立しているのではないかと心配していた。
S先生の授業の進め方は、課題に興味があり、自主的に勉強を進められる児童にはよいが、私のような主体性を欠いたものには向かず、みるみる成績が落ちていった。しかし、私が登校できるようになったのは、S先生が担任だったことが大きい。先生の指導は、児童に緊張感やストレスを与えず、班ごとに互いに教え合うことで相互扶助の精神を植え付けるものだった。このためイジメは皆無で、みんな素直で思いやりがあった。私はたまたまこのクラスに転校したため、自分のペースでゆっくりと新しい環境に馴染んでいくことが出来たのだと感謝している。
因みにS先生の下のお名前は春(しゅん)である。春にお生まれになったのだろうが、春男でなく、「しゅん」と命名したご両親も、きっとユニークな方だったに違いない。
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