7月8日の午前11時30分頃、貴方は奈良市で応援演説を始めて間もなく、41歳の悪魔の凶弾に倒れ、心肺停止となりました。憎き悪魔は貴方の背後から近づきながら手製の銃を手提げかばんから取り出し、両手を使って狙いを定めて引き金を引きました。その時、貴方は目の前の聴衆に向けて熱心に語りかけていて、背後から魔の手が迫っていることなど、知る由もなかったでしょう。時計は無情にも時を刻み、「ズドン」という大きな音で貴方は後ろを振り向きますが、その瞬間に闇夜が貴方を包み込み、遥か遠くの銀河の向こうへと連れ去ろうとしました。
私はこの事件をSNSで知り、初めはフェイクだろうと思いました。しかしその後、ネットニュースやテレビでも報道され、事実とわかると、言葉にならない怒りと悲しみがこみ上げ、ただただ貴方の回復を祈りました。
貴方は1954年9月生まれで、私より1歳5か月上です。しかし、戦後の高度経済成長期という同じ時代に育った点は共通しています。東京タワーができ、新幹線が通り、首都高速が走り、アジアで初めてのオリンピックが開催されました。大阪万博の時、貴方は高校1年生でしたね。私は中3の時に修学旅行で訪れました。
貴方は52歳の若さで首相に就き、翌年の参議院選挙で自民党が負けると、体調不良もあって9月に辞任されました。私はこの9月から中小企業大学校の中小企業診断士養成課程に入り、東大和の寮のテレビで貴方の会見を見ていました。20年8ヶ月勤めた会社を辞め、背水の陣で臨んだものの、若い人に交じって慣れないパソコンを使い、難解な授業に付いて行けるか不安な思いを抱えながら、複雑な気持ちで画面を見ていた記憶があります。この時の貴方は、病気と選挙という難敵と戦い、一旦は退きますが、復活してからは内政に外交にと目覚ましい活躍を遂げます。
潰瘍性大腸炎という病気は、国の難病に指定されるほど治療が難しい病気で、激しい下痢を繰り返すため、国の内外を問わない出張のほか、陳情や会議など人と会う機会が多い役職の貴方は、人知れず苦労されたことと思います。
貴方は国会答弁で挑発する野党に対して、官僚の用意した文書を棒読みするのではなく、ご自身の言葉で厳しく反論されていましたね。感情を露にして抗議する場面もありました。党や国を背負っているという強い自覚があったからこそ、堂々とした議論を避け、相手を怒らせて失言を引き出そうとする卑怯な策略を見過ごせなかったのでしょう。外交交渉にも熱心でした。ロシアとの北方領土交渉や北朝鮮との拉致事件の交渉は進展がなく、心残りだったと思います。
午後5時3分に貴方が亡くなったことをニュースで知りました。何ともやるせない思いです。ニュースは貴方が父・晋太郎氏の後を継ぎ、選挙に当選してから今日までの記録を繰り返し報じています。海外のメディアや政治家のコメントも多く流れ、貴方が長年にわたり世界中の要人と交流を重ねたことが伝わってきました。事件現場は弔問に訪れる人であふれ、涙を流しながら献花する人もいました。
今回の暴挙は絶対に許せないし、今後は二度とこのようなことのないようにしなければなりません。子や孫、その先にも代々伝えていくようにしたいです。そして、貴方の功績はずっと私たちの記憶に刻まれ、やり残したことは次世代が引き継いでくれるはずです。
貴方はあちらでお父様やお爺様と一緒に、わが国の行く末を見守ってください。
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