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執筆者の写真池永敏之

高度成長期の子供時代

更新日:2022年8月10日


 今日、7月8日はブログを開設して丁度1ヶ月の記念の日である。本稿が29本目なので、ほぼ1日1本になる。4年後の古希にこれを編集して本を製作し、家族や知り合いに配るのが夢だ。当初の方針にないテーマも何本か組み込んだが、記念の本稿では原点に返って小学校低学年の頃の思い出を披露したい。私は昭和31年に生まれ、日本の高度成長期に育ったので、当時の雰囲気を感じてもらえると嬉しい。


 小学1年生の頃だろうか。うちの近くには公園はなかったが、なぜか私は同年代の女の子とブランコで遊んだことをたまに思い出す。彼女はスラッとした背丈で身長が私より高く、地味なワンピースにピンク色のサンダルを履いていた。大変おマセな子で、「大人になったら二人は結婚するんだよ」と言うので、地味な雰囲気があまり好きではなかったけれど、「いいよ」と返事をした記憶がある。一緒に遊ぶといっても、かけっこや砂遊びなどではなく、ただブランコを漕ぎながら隣同士でいろんな話をするだけ。8割くらいを彼女が話し、私は聞き役であった。彼女の話は、大人になったら何になるとか、両親は見合い結婚だとか、空飛ぶ絨毯で遠い国へ行ってみたいなど、早熟な話題が多く、幼い私には付いていけない内容だったが、ロマンチックな世界に誘われるようで聞いていて心地よかった。


 彼女は学校で見かけない顔だったので、就学前だったか、もしかすると、学校に通っていなかったのかもしれない。京浜運河の河口には、船上に物干し竿を置き、シャツやズボンなどの洗濯物を干し、そこで生活しているような木造船が何艘か繋がれていた。船は荷物を運びながらあちこちを転々とし、積荷や水、食料等を補給するため一定の場所にしばらく留まることもある。彼女はこの船で両親とともに生活していて、学校へは行ってなかった可能性がある。なぜなら私が1年生の頃は、港区港南地域には住宅地がなく、企業の倉庫や空き地ばかりで、住宅は東京都水道局の官舎だけだったからである。


 当時、ソニーがトランジスタラジオを開発し、真空管からトランジスタへの移行によりラジオは小型化され、一家に一台から一人一台に、またどこにでも持ち運べるようになり、世界中に普及していった。ただし一般庶民には手の届く値段ではなく、我が家には昔ながらのラジオが置かれていた。

 

 私たちは目線が低いせいか、あちらこちらで曲がったクギや一升瓶、ビール瓶などお金に替えられるものを拾ってきた。そのついでにガラクタも集めたが、アメリカの戦争ドラマの「コンバット」の中でトランシーバーを目にして、伸び縮みするアンテナが欲しくて、ソニーの倉庫の隣の空き地によく足を運んだ。友達がここでアンテナを拾ってきたからだ。このアンテナはトランジスタラジオのものだが、不良品を倉庫の人が処分したのだろう。しかし子供たちにとっては、「コンバットごっこ」のトランシーバーとなったり、引き伸ばしてフェンシングのように使ったりできる、宝物なのだ。


 私はしょっちゅう宝探しに行ったのだが、アンテナが途中で切断された短いものしか見つからなかった。ある日、倉庫に隣接する空き地で、ゴミが置かれたそばの土の上に、石灰のような白い粉がうっすらとまかれていた。私はその中へ半ズボンに運動靴という格好で入っていき、遊びに使えそうなものを探していた。ふと右足の足首の内側あたりがムズムズしたので、左足の靴のかかとでそこを2~3回かいた。しばらくすると、今度はそこが痛痒く感じ、画鋲くらいの大きさの円形の皮膚がグジュグジュと焼けただれたようになった。白い粉は石灰ではなく皮膚に触れると火傷する化学物質だったに違いない。今でも右足首の内側に火傷の跡が残っている。よその敷地に無断で入ってゴミを漁ったバチが当たったのだろう。



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